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キリスト教の救いについて

このブログの中からキリスト教の救いについて
わかりやすい順序に並べました。


【救い】、【罪】、【原罪】、【贖罪】、【あがない】、

【十字架】、【信仰】、【信じる】、【悔い改め】、【恵み】、

【義認】、【新生】、【聖霊】、【聖化】、【聖め】、【聖潔】





【救い】 イエス・キリストの救いは恵みにより、信仰による。
   救いはすべての人に対する神の賜物である。

   代価(金銭)も、悔い改め、償い、良きわざ、信仰の行為すらも、
   救済を買い取ることはできない。   

   救いの条件に、伝道、奉仕、献金のある宗教に救いはない。
   キリスト教の救いはゼロ円 。

   救いは、われわれが何かを差し出すというようなものではなく、
   全くただで受け取るものである。

   救いはすべての人に提供され、だれでも価なしに受けることが
   できる恩恵である。救いは神からの賜物、無料の贈り物である。

   ---------------------------------------------------------

   イエス・キリストがわたしの罪のために十字架にかかり、
   すでに罪の代価を払われたことを信じ、主として心の中に

   受け入れれば、罪が赦され、天国に入ることができると
   いうのが、キリストの教えである。

   神がまず事を始められ、神に応答するように人に勧めている。
   何か難しいことを命じているのではなく、

  「われを仰ぎ見て救われよ」と言っているのである。
   キリストに向かって「はい」というだけの簡単な
   信仰の行為である。


  「地のはてなるもろもろの人よ、
   わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。
   わたしは神であって、ほかに神はないからだ」
               イザヤ 45:22

   イエス・キリストを信じて十字架を見上げたものは、
  永遠の滅びから救われ、新しく生まれる。

   荒野で上げられた青銅の蛇は(民 21:9)、イエス・キリストの
   十字架のモデルだった。


   だれでも、イエス・キリストを主として心の中心に迎い入れ、
   救い主として信じるものは罪が赦され、天国に入ることができる。

  「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、
   自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと

   信じるなら、あなたは救われる。
   なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。

   聖書は、『すべて彼を信じる者は、失望に終わることがない』
   と言っている。ユダヤ人とギリシャ人の差別はない。

   同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに
   恵んで下さるからである。なぜなら、『主の名を呼び求める者は、
   すべて救われる』とあるからである」
                   ローマ 10:9~13


   イエスの救いは教えではなく、現実的な事実である。

   救いは信仰による贈り物であり、人は信じた瞬間に
   永遠のいのちをもつ。

   人が救いの経験をしたとき、聖霊が与えられ、信仰者に内住する。
   その時点から、人は聖霊に導かれて生きるようになる。

   -------------------------------------------------------

   行いが人を義にするのではなく、信仰から善き行為が必然的に生じる。
   決して救われるために行いをするのではない。

   信じることの中に自分を変えるとか、何かを差し出すなどの
   ニュアンスは含まれていない。
   救いは恵みによるのであり、決して人の努力によるのではない。

  「救いの条件として信仰以外何ものも付け加えてはならない」
  「人間が、何らかの効果があると考えて、何らかの形で人間の働きを

   それに付け加えるならば、それは救いの教理そのものについての無知か、
   あるいは許されざる不注意だと言わなければならない」
        『信じるだけで救われるか』 高木慶太 著


  「神の救いは、救われる価値のない人のため、救われるために何一つ
   備えのない人のためであるべきである」

  「イエスは、私たちが救われる価値があるから救いに来られたのではなく、
   私たちが全然値打ちのない、だめになった、できそこないであるからこそ
   救いに来られたのです」
  
  「今あるがままの姿で、ふだん着のままで、
   罪と罪の汚れのままでおいでなさい」    

  「改善してはなりません。今すぐ救われるためにおいでなさい。
   神は、不敬虔な者を義と認められるのです」

  「救いは、最悪の状態のあなたに適合するのです」
         『ただ恵みによって』C.H.スポルジョン


  「あなたが最悪最低の状態に落ちても、あなたの下に永遠の
   腕があることを覚えよ。
   主は極みまで救うことがおできになるのである」
         『朝ごとに』 C.H.スポルジョン


  「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」
               黙示録 22:17


【罪】  聖書の原語では、まとはずれ、邪曲性、邪悪性、暴虐など
   虚偽、不正をいう。

   罪とは知られている神の命令に対する意図的な違反である。
   してはいけないとはっきりと命じられていたのに、それを
   行なうこと。

   神に背き、神の助けを拒むこと。
    
   -------------------------------------------------------

   「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、
   真理はわたしたちのうちにない。

   もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で
   正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義から
   わたしたちをきよめて下さる。

   もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者
   とするのであって、神のことばはわたしたちのうちにない」
                ヨハネ第1 1:8-10


   イエス・キリストは、正しいと思っている人、健康だと思って
   いる人のためではなく、罪びとを救うためにこの世に来たのである。

  「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」 
  「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」
                マタイ 9:12、13

  * 罪とは的を外すことで、義とは的を射ることである。



【原罪】 すべての罪の根幹をなすもの。
   原罪はルーツ(根源)であり、その結果が多くの罪である。

   被造物である人間が創造者の立場に立とうとする邪悪性が
   本質的な罪である。

  アダムとエバの対する従順についての試みに、彼らは神の
   命令を無視し、禁じられたことをして、自分自身を自分の
   主とした。

  「神の命令に反逆する不従順の罪、また神から独立して神の
   ように賢くなろうとする高慢の罪、それが始祖の罪の本質です」
             『福音の凱歌』 工藤弘雄

  「サタンはエバに対して、自分の言う通りにすれば『あなた
   がたは神のようになれる』 と言って騙しました」
           
  「私たちは神ではありませんし、決して神になることもあり
   ません。私たちは人間です。神になろうとする時、私たち
   は悪魔と同じ轍を踏むことになるのです」 
        『人生を導く5つの目的』 リック・ウォレン


  「サタンは神の権威を踏み越えたためにサタンとなりました。
   彼は神と競い、神に対抗して立とうとしました。
   反逆がサタンの堕落の原因です。

   罪は行為の問題です。罪が赦されるのは容易です。
   しかし反逆は原則の問題です。

   サタンは自分の座を神の御座の上に据えようとして、
   神の権威を蹂躙しました。サタンの原則は自己を高く
   揚げる原則です。

   罪が入って来たことがサタンの堕落の原因ではありません。
   むしろサタンが神の権威に反逆し、神によって罪に定めら
   れたことから、引き続いて罪を生じたのです」   
            『権威と服従』 ウオッチマン・ニー
 
   悪の起源は、自分を高くしようとする高慢にある。
   神を無視する自分勝手が根本的な罪である。              

   高ぶりの本質は、エゴイズムであり、すべてのものを
   なでぎりにして、自分だけで生きようとする。
   神を認めず、人を認めようとしない。

   人間は自分を高くしようとして自ら滅んでしまう。
   いのちの道はへりくだるところにある。

  「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」
                 箴言 16:18
              

【贖罪】 自らでは贖うことのできない人間の罪を神の子であり、
   人となったイエス・キリストが十字架の死によって代価を払い、
   神との和解を果たしたことである。


  「神は無条件で罪を赦すことはなさいませんでした。
   罪は必ず裁かれなければなりません。呪われなければなら
   ないのです。

   神はひとり子イエスを十字架につけるという痛ましい手続
   きによって人の罪を赦しました。その手続きを経なければ、
   神でさえ罪を赦すことはできないのです。

   罪とは、だれかが償わななければならないものです。
   人間の罪というものはお金では代えることができません。
   命には命が必要です。

   人間を救うためには、人間が死ななければなりません。
   しかし、人間は皆自分の罪のために呪われるべきであって、
   残念ながら、人の身代わりになることはできません。

   イエスは、私たちの罪のための贖ないの供え物です。
   私たちの罪のためばかりでなく、全世界の罪のためのもの
   でもあります」
       『十字架のキリスト』より抜粋 植竹利侑 著

  「正義と愛の二つは、相反するものです。
   正義は犯罪者をさばいて暗黒の刑罰へ送り込みます。

   愛は犯罪者まで愛して、暗黒から光へと救い出します。
   もし正義であり愛でありたい時は、必ず十字架があります」
          『今日の知恵 明日の知恵』 羽鳥明 著
 

  「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。
   それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである」
                 第2コリント 5:21

  「わたしたちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、
   不敬虔な者のために死んでくださいました。

   正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。
   情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

   しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちの
   ために死んでくださったことにより、神は私たちに対する
   ご自身の愛を明らかにしておられます。

   ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、
   彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

   もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた
   のなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いに
   あずかるのは、なおさらのことです」
                 ローマ 5:6~10 

  「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
   それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
   キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」
                 第1ペテロ 2:24

  「人がその友のために自分の生命を捨てること、
   これよりも大きな愛はない」
                 ヨハネ 15:13

  * 十字架の贖罪を信じるかどうかが、キリストを信じるか否か
   ということである。

   人は、神の前に自分が罪人であることを認め、
   その罪の赦しのために命を捨ててくださったキリストを、

   自分の救い主として信じ、受け入れるならば、
   ただそれだけで、ほんとうに救われるのである。



【あがない】 贖(あがな)いとは、奴隷市場で代価を払って買い
   取った奴隷を釈放して自由人にするように、文字通りには
   代価を払って自由にするという意味である。

    〔ギリシャ語の原語〕  
   1)アゴラゾー 
    「奴隷市場の中で奴隷の代価を払う」

     キリストは十字架で、ご自分の血によってすべての人の
    (未信者を含む)罪の支払いをしてくださったのである。

   2)エクサゴラゾー
    「奴隷市場から外へ連れ出す」

   3)リュトゥロオー
    「開放する」「完全に自由の身とする」
     2)、3)は聖書の中で救われた人にのみ使われている。

   キリストを救い主として信じ受け入れて初めて、人は救われる
   のであり、信じない人は、代価が払われたにもかかわらず、
   まだサタンの奴隷市場の中につながれたままなのである。

       
  「罪の支払う報酬は死である」
                ローマ 6:23

  「まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。
   そのいのちの価を神に払うことはできない」
                詩篇 49:8 (協会訳)

  「神に対して、人は兄弟をもあがないえない。
   神に身代金を払うことはできない。

   魂をあがなう値は高く
   とこしえに、払い終えることはない」
                詩篇 49:8、9 (共同訳)
    
   罪のないイエス・キリストが、人間の罪のために、
   人間にかわって、十字架の死という代価を支払われた。

   それがキリストの罪のあがないである。
   それを信じ受け入れるとき、神の前に罪が赦される。

   イエス・キリストが私のために、私にかわって、
   十字架の死を遂げた。イエス・キリストの命という
   代価を払って、私たちの命は買い取られたのである。


  「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、
   仕えるためであり、多くの人のあがないとして、
   自分の命を与えるためである」
                マルコ 10:45 


【十字架】 
 
    〔十字架の意味〕

   1、身代わり
   2、神の義と神の律法を満たすため
   3、あがない

  「しかし、彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
   われわれの不義のために砕かれたのだ。

   彼はみずから凝らしめをうけて、
   われわれに平安を与え、
   その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

   主はわれわれすべての者の不義を、
   彼の上におかれた」
               イザヤ 53:5、6

  「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを
   罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって
   神の義となるためなのである」
               コリント第二 5:21
          
  「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。
   ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、

   おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、
   いっさいをゆだねておられた。

   さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、
   十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に
   負われた。

   その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
               ペテロ第一 2:22~24

  「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、
   不信心な者たちのために死んでくださったのである。

   正しい人のために死ぬ人は、ほとんどいないであろう。
   善人のためには、進んで死ぬ人もあるいはいるであろう。

   しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのために
   キリストが死んで下さったことによって、
   神はわたしたちに対する愛を示されたのである」
                ローマ 5:6~8

  「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、
   仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、
   自分の命を与えるためである」
               マルコ 10:45
 
   ---------------------------------------------------

  〔十字架におけるキリストの四重の働き〕

   1.キリストの血--------複数形の罪と罪意識を処理する。            
    (レビ 17:11、ヘブル 9:22、エペソ1:7)
               
   2.キリストの十字架----単数形の罪と肉と生まれながらの
               人を処理する。

   3.キリストのいのち----人の内に住み、人を再創造し、
               また力を与える。

   4.死の働き------------内住のいのちが次第に現れるために、
               生まれつきのままの人の内に働く。 
           『キリスト者の標準』 ウオッチマン・ニー

  「肉の命は血にあるからである」
  「血は命であるゆえに、あがなうことができるからである」
               レビ 17:11

  「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」   
               ヘブル 9:22

  「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちを
   きよめるのである」
               ヨハネ第一 1:7

  「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の
   古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、

   この罪の体が滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷と
   なることがないためである。それは、すでに死んだ者は、
   罪から開放されているからである。

   もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、
   また彼と共に生きることを信じる。

   このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだもの
   であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者で
   あることを、認むべきである」   
               ローマ 6:6~11

  「わたしはキリストと共に十字架につけられた。
   生きているのは、もはや、わたしではない。
   キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」
               ガラテヤ 2:19

  「キリスト・イエスに属するものは、自分の肉を、
   その情と欲と共に十字架につけてしまったのである」
               ガラテヤ 5:24

  「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、
   神によるのである」
               コリント第一 1:30

       
   キリストが十字架につけられた時に、わたしたちも
   共に十字架につけられた。神は、彼にあって私たち
   をそこに置かれた。

  「キリストにあって」私たちが死んだということは、
   単なる教義上の問題ではなく、永遠の事実である。      

   それはすでになされた事がらであり、神の啓示によって
   理解され、信仰によって受け入れられるべきものである。      


   神はキリストの十字架によって、神の前における人間の
   立場を変えてくださり、それとともに人間をそれ以前と
   は違った見方で見られる。

   われわれがキリストと同一視されているという事実は、
   もはや罪はわれわれを支配しない。
   罪に対しては死んだ者、神に対しては生きた者となる。


 
  「私たちの罪を贖う力は、神が贖いために定められた
   キリストの血潮以外にない」
 
  「罪に悩む良心が回復される唯一の道は、十字架上に
   苦しんでおられるイエスを見ることである」
          『朝ごとに』 C.H.スポルジョン       
      


 【信仰】信仰は、「あるものにもたれかかる」という意味。
   頭だけでうなずくという理屈ではなく、確かなものに
   寄りかかる行為を指す。

  「信仰は知ること、信じること、より頼むことの三つの
   ことからなる」

  「知識や、行動力、実行力、愛するということの源はみな、
   信じるという態度から生まれる」

  「信仰は心から出るものです。
   ですから、神が信仰に救いを与えたのです」
       『ただ恵みによって』 C.H.スポルジョン

   
  〔信仰のギリシャ語〕
  『ピスチューオー』の信仰は、頭だけの信仰。

  『ピスチューオーエイス』の信仰は、心からの信仰、
   人生をかけた信仰。


  〔信仰の3つのレベル〕

   1)物事を事実として認めるという意味での信仰。
   2)物事や人々をよいものとして受け入れるという信じ方。

   3)信じて身をまかせる信仰。

     船や飛行機に乗り込む、というように、信頼して身を
     まかせるのです。
             『みことばの泉』 羽鳥明 著

  
  「頭で信じることと、心で受け入れることとの間には大きな
   相違がある」

  「信仰とは、単なる同意や単なる信用ではなく、
   福音の中にあらわされている真理を知的に認知し、
   それに信頼することである」

  「信仰とは何かを受け取ることであって、
   何かをすること、あるいは何かの状態ではない」
        『信じるだけで救われるか』 高木慶太 著

  「一般的な信仰と救いに至る信仰との違いは、おもに信じる
   対象によって異なります」

  「救いを与えるのは大きな信仰ではなく本当の信仰なのです。
   からし種のような信仰でも救いをもたらすのです。
   信仰の大小の問題ではなく、信仰の真面目さの問題です」

  「信頼こそ信仰の命です。
   これなくして、救いに至る信仰はありません」
  「信頼はキリストとそのあがないの恵みを自分のものにするのです」

  「信仰は、神の恵みが私たちの中で働いた結果、出てくるものです。
   聖霊の働きがなければ、だれもイエス・キリストが主である
   ということはできません」

   信仰によるのは恵みによるため、恵みによるのは誇ることのない
   ためです。
   神は高ぶりを赦すことのできないかたです」
      『ただ恵みによって』 C.H.スポルジョン著 

 
   神は、事実でないことを事実として認めるように、
   と、言われるのではない。

   信仰によることは、事実に目をつぶることの同義語
   ではない。

   信仰とは、神の事実を受けることである。
   事実をあえて信じる時に、人は救われる。
     
  「私たちが信仰によってその事実を自分のものとして
   受け取る時にのみ、それが私たちの生活にあって
   現実の体験となるのです」
       『キリスト者の標準』 ウオッチマン・ニー 

  「力といのちの源である神さまにつらなってこそ、
   いのちと力を受けることができる。

   そして神と人とを結び合わせるもの、それが
   信仰なのです」
           『救いは今です』 沢村五郎


  「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、
   まだ見ていない事実を確認することである」
               ヘブル 11:1

  「信仰は聞くことによるのであり、聞くことは
   キリストの言葉から来るのである」
               ローマ 10:17

  「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、
   信仰によるのである。

   それは、あなたがた自身から出たものではなく、
   神の賜物である。

   決して行いによるのではない。
   それは、だれも誇ることがないためである」
               エペソ 2:8、9

   
  「目をつぶっていれば、太陽が輝いていても、
   光の恩恵は受けられません。

   しかし、信仰の目を開けると、
   神の光があなたの人生にさし込むのです」

   一寸でもいい、あなたの心の窓を開け、
   世の光である神様を心の中に受け入れて

   ごらんなさい。光が闇を追い出し、
   あなたの人生を明るくしてくださいます」
       『みことばの泉』 羽鳥明 著


  「あなたがたは心を騒がしてはなりません。
   神を信じ、またわたしを信じなさい」
          ヨハネ 14:1

   
【悔い改め】 考えを変えること。心の態度を変えること。
   心の方向転換をすることである。

   心の入れ替えることで、キリストの物の見方、考え方を
   身に付けるということ。
 
   原語(メタノイア)の意味
  「間違った概念や偏見を捨てて真理の認識に目覚める」
  「別な心を持つ」、「心を変える」

 ・「知的要素」  見方を変えることを示唆している。
          すなわち、罪、神、ならびに自己に
          ついての見方を変えることである。

 ・「感情的要素」 感情の変化を意味する。
          再び、申し訳なく思う。
          悲しみ、ゆるしを願う気持ちは悔い
          改めのある面を表している。

 ・「意思的要素」 意思と性向の変化。
          内面的に罪から離れることである。
         「心を変える」という意味である。
  
   ----------------------------------------------------  
   悔い改めとは、後悔することではない。
   悔やむことと悔い改めることとは別である。
   悔い改めが、罪の赦しの原因だと考えてはいけない。

  「悔い改めは、罪(犯した結果)に対する悲しみである」
   という考えほど、聖書の概念から離れたものはない。

   1)悔い改めを罪に対する悲しみと混合してはいけない。

   2)悔い改めは償いではない。
     償いは、自分がした悪い行いを何らかの形で補おう
     とする努力である。

   3)悔い改めは、生活を改善することでもない。        
 

  「神ではなく、自分でどうにかできると思っているかぎり、
   救いはありません。哀れんで下さいと、回れ右をして
   神さまに向かう心が悔い改めなのです」

  「人は考えを変えることなくして救われることはできないが、
   その考えの変革は、信じることの中に含まれている」      
    
  「神について、罪について、自分について、キリストについて、
   救いの方法について、自分の間違った考えを捨て、
   キリストを信じることと定義することができる」

  「キリストを信じるとき、人は自動的に、間違った概念を捨て、
   正しい認識に目覚めるものなのである」     

  「悔い改めは考えの変革であり、信じることの中に含まれている。
   だれでも、以前頼っていたものからキリストに信頼を移すこと
   なくしては、キリストを信じることはできない」
           『信じるだけで救われるか』 高木慶太 著

   悔い改めとは、また、実際に罪に背を向け、神の恩寵によって、
   神が望まれるように生きようと決心することを意味する。

   悔い改めと信仰とは、ふつうだれでも同時に起こる。
   神のみことばによって良心が呼び覚まされることが、
   悔い改めの第一歩である

  「福音を聞き、それを理解し、キリストを信じる時、
   そのプロセスにおいてその人は考えを変えているのである。

   悔い改めは信じるという行為の中に必然的に含まれており、
   信仰の一部なのである」
         『信じるだけで救われるか』 高木慶太 著   

  「神の目の高さから自分自身を見ることである」
                     アウグスティヌス
    
  「主要な点は、罪からキリストへ心を転換することです。
   もしこの転換がありさえすれば、悔い改めの本質は
   あなたのものです」

  「悔い改めの結果としてキリストを見ることができる
   のではなく、キリストを見ることによって悔い改める
   ことができるのです」
        『ただ恵みによって』C.H.スポルジョン
 
  * 回心、義認、新生は、みな同時に起こるのであるから、
   時間的な順序はない。

   回心とは、神に立ちかえる行為をさし、
   悔い改めと信仰との二つの要素から成り立っている。



 【恵み】 カルトの団体では救いはただでは与えられない。
   受けるためには現世で多大の奉仕か献金をしなければならない。


   恵みは一方的に与えられるもので、何かの働きによって
   与えられる報酬とは違う。
   受けるはずのないものを、受けること。

  「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによる
   あがないによって義とされるのである。

   神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって
   受くべきあがないの供え物とされた。
   それは神の義を示すためであった」
                 ローマ 3:24、25

  「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰に
   よるのである。それは、あなたがた自身から出たもので
   はなく、神の賜物である。

   決して行いによるのではない。それはだれも誇ることが
   ないためなのである。

   わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、
   キリスト・イエスにあって、造られたのである。

   神は、わたしたちが、良い行いをして日をすごすように
   と、あらかじめ備えて下さったのである」
                 エペソ 2:8~10

  「もし人の救いが自分の努力と修養の結果であるとする
   ならば、自分が得意となってしまいます。

   おそらく謙遜にもなれず、同情も無く、また自分で
   できたと思えば感謝もなくなることでしょう。

   何の価値もない罪人が、神の恵みと愛によって、
   キリストのいさおしによって救われたと思うとき、
   どうして高慢になれましょう」
          『救いは今です』 沢村五郎 著

  「人々が救われるのは、その人々の側に何かがある
   からではなく、また人々の中にある何ものかによる

   のでもありません。ただ限りなく愛、善、あわれみ、
   同情、仁慈、つまり神の恵みだけによるのです」

  「救いは、最初から最後まで、ただ恵みだけからでる
   ものです」

  「信仰そのものも神の賜物なのです」
       『ただ恵みによって』 C.H.スポルジョン著


  「あなたが救われるのは、あなたがキリストをとらえている
   ことによってではない。
   キリストがあなたをお救いになったのである」
           『朝ごとに』 C.H.スポルジョン


  「神をつかんだ、救いを自分の手に入れた、と思っている
   なら大間違いですよ。私たちの信仰なんて弱いですからね」

  「あなたが神をつかんだのではありません。神様が初めから
   あなたをつかんでいて下さっているのです。

   神様の手は疲れたりしません。救いは神ご自身にあります。
   私の力、私の信仰、私の善行、私の知識ではありません」
             
  「私たちが求める以前に、イエス・キリストの十字架によって、
   罪を解決して下さっているのです。

   私たちが『神の子』となる道を開いて待っていて下さり、
   また招いていて下さるのです」
           『みことばの泉』 羽鳥明 著
      

  * ここまでは救いの土台部分です。
   続いて、義認、新生、聖霊、聖化、聖め、聖潔を開いてください。

   すでにクリスチャンになっている人のために書きました。
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